小峰焼の歴史①

小峰焼の源流は「やきもの戦争」と呼ばれる文禄・慶長の役(1592・1597)も遡ると言われます。当時、侘茶の隆盛に伴う桃山茶陶の爛熟期にあり、現在では考えられないほど焼物への関心が高い時代でした。茶人である千利休は政治的にも力を持ち、信長や秀吉に茶会に招かれることは武将にとって最高の栄誉でした。名物茶器は一国一城にも値することがあったといわれます。延岡城主・高橋元種は文禄の役・慶長の役の二度にわたり、地元所領主や兵士とともに出陣しています。行動をともにした長門、九州の諸大名はそれぞれ陶工たちを連れ帰り、萩焼、有田焼、上野焼、高取焼、波佐見焼、小代焼、薩摩焼といった窯が同じ慶長年間に開窯されています。後の延岡藩主・内藤家の侍医であった白瀬永年が18世紀に著した宮崎最古の歴史書と言われる延陵世鑑によると、

『1592(文禄元)年、壬申春三月太閤秀吉公朝鮮征伐の催促に応じ、軍卒六百二十五人を引率し種続卿彼地に渡海あり。慶長三年まで7年間の間在陣にて恙なく帰陣なり。-中略-扨て高橋勢、往来の度毎に朝鮮国の男女老若を撰ばず生け捕り来たりて奴僕とす。其数何百人ということを知らず。然る中にも幸いなる女は人の妻妾となり男は主人に隙を得て妻子を設け篭を立つるもの多し。

(-以下 略-)』

とあります。時代背景からこの中には当然陶工もいたと考えられます。1603(慶長8)年、小峰地区に近い松尾城から縣城(後の延岡城)に拠点を移した高橋元種は、1613(慶長18)年に改易となり、その後有馬氏の統治が三代にわたって続くことになりますが、その「有馬家中延岡城下屋敷付絵図」には「焼き物仕」の表記が五ヶ所見られます。小峰焼は高取焼や小代焼と同じく、朝鮮の会寧焼と酷似しており、他の産地同様、17世紀はじめには延岡の地で、小峰焼の胎動があったと考えるのが自然でしょう。

泰田久史「小峰焼(延岡内山焼)の復元・再振興について」(2011年)より抜粋

ー つづく ー