小峰焼の歴史②

ただ、現在の窯跡がある小峰町内山地区で最初から焼かれていたとするには無理があり、残されている窯の構造自体も寛政年間を上限とする可能性が高いと考えられています。発掘調査で採掘された陶器や磁器の作品や窯道具も同様に17世紀はじめとするには難しいため、開窯時期についてはこれまで慶長年間説から18世紀後半まで様々な展開がなされていますが、18世紀前半説(堀田孝博・柳田晴子)が有力と思われます。

小峰焼の作品としては1963(昭和38)年の発掘調査で前期には陶器、後期には磁器を焼いたことがわかっています。鉢、茶碗、皿、壺、徳利、仏花器など多岐にわたりますが、特に前期の陶器の代表格は“うんすけ”です。つぼの肩に約3~5cmの注入口がついているもので、昔は自家製のどぶろくや醤油などを貯したものです。窯の主力商品であり、得意としたことから優品が多く残っています。また、寛政年間頃からは延岡藩の経済政策下で磁器の生産が開始したものと思われます。こちらも多彩な作品が残っていますが、なかでも乳白色や青白色の肌に呉須による松竹梅文、草花文、網目文、渦文といった文様を持つ茶碗や皿などが多く出土しています。

 

この頃の作品として、延岡市内藤記念館に「日州延岡 久右衛門」の署名が入った皿の破片があります。同時期の作品「和敬文徳利」も書体から九右衛門の作と見られていますが、雅味あふれる見飽きることのない名品です。これらの陶工たちの墓も窯跡の近くに残されており、

・新助 延享4年(1747)没

・与助 文政5年(1822)没

・久右衛門 弘化3年(1846)没

・元治良 嘉永6年(1853)没

といった名前が確認できます。

(この元治良という人物が小峰焼最後の陶工と言われています)

 

泰田久史「小峰焼(延岡内山焼)の復元・再振興について」(2011年)より抜粋