小峰焼の再生②
〈小峰焼再生への過程〉
土についてはまず、小峰町の3ヶ所で取れた粘土で試しました。この地区は昔から土器が焼かれ、最近まで瓦粘土を採取していた場所です。粘土は昔から良く取れ、地元の子供たちはよく粘土遊びをしていたといいます。地元の方からいただいた3ヶ所の土は驚くことに1250度の高温にも耐え、すべて陶器となりました。特にある方の敷地から取れた土は、釉薬としても面白い素材でした。
次に柴田・小田氏が著した研究書の中にある「土取迫」の土を探しました。記述によると、小峰焼窯跡の当方1kmのところに、古来土取迫と呼ばれている狭い迫があり、小峰町の古老である綿木豊四郎氏(昭和44年当時84才)の話よれば、小峰焼の陶土はここから運ばれたと聞いているということでした。現地の土は鉄分を含んだ赤褐色を呈し、粘調度の極めて高いものであったそうです。様々な方面で聞いてみたものの、かなり以前から土の場所がわからなくなっており、同様に年代測定の鍵を握ると思われる陶工の墓も不明になっていました。
ところが、土は突然発見されました。地元小峰町に住む今回の研究に協力してくださっている甲斐盛豊氏から連絡があり、「土取迫」の土を持ち帰ったということでした。早速土をテストしてみたところ、焼きあがった陶器の肌は、内藤記念館にあるものや、地元に伝わるものに非常に近く、小峰焼窯から東の直線上1kmほどのところにあり、粘土の特徴もあっていて、まず間違いのないものと思われました。
甲斐氏は同居する母親から「ツチトリサコ」はわからないが、「ツトリサコ」と読んでいた場所があることを聞き、現地に赴いたところ、親戚筋にあたる方の所有する休耕田の場所だったということでした。その方の話によると、この田は水はけが悪く苦労されたとのことでした。粘土層の存在がうかがわれる話です。この土地は年配の方は「ツトリサコ」、50代あたりだと「ツトサコ」、現地の人は「ツザコ」と呼んでいました。もちろん地図にも記載されておらず、外部の者が見つけるのは困難であったと思われます。
泰田久史「小峰焼(延岡内山焼)の復元・再振興について」(2011年)より抜粋
=つづく=