洋画家・中村琢二が描いた高千穂風景
延岡市が所蔵している故・中村琢二が描いた油彩画「高千穂風景」100号について、宗像市史資料編別巻「中村研一/琢二 画家日記」を元に、昭和30年(1955)に画家・中村琢二が延岡・高千穂を訪れた時のことを令和7年度延岡史談会会報「縣」第34号に寄稿しました。以下に全文を転載させていただきますので、是非ご覧ください。
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「洋画家・中村琢二が描いた高千穂風景」 延岡史談会 川中啓二
延岡史談会 平成31年度会報「縣」第29号にて筆者は「日本を代表する洋画家・中村琢二」という寄稿文で洋画家・中村琢二が高千穂の風景を描いた100号の大作が旧野口記念館に飾られていたことについて書きましたが、今回は芸術院会員にまでなった巨匠・中村琢二と延岡との関係について記したいと思います。
まず、故・中村琢二(1897~1988)について。明治30年(1897)に新潟県佐渡ヶ島に生まれ、後に愛媛県新居浜市から福岡県宗像市に転居。福岡県立中学修猷館在学中に兄・研一(1895~1967)とともに西洋画を学び始めます。東京帝国大学経済学部を卒業後、やはり兄のすすめで洋画家を志し、安井曾太郎に師事、一水会の創立メンバーとなります。その後文展や日展、一水会で活躍、様々な受賞歴を持ち、昭和56年(1981)に芸術院会員に推挙、翌、昭和57年(1982)には日展顧問となります。昭和63年(1988)横浜市で死去。享年90歳。その画風は柔らかなタッチと中間色を用いた穏やかな作風で没後30年が過ぎた今でも多くのファンを持ちます。平成29年(2017)に福岡県立美術館で開催された「生誕120年 中村琢二 瑞々しき画布の輝き」展が開催された他、やはり福岡県立美術館にて2024年12月から2025年2月にかけて、「中村研一と中村琢二展」という兄弟である二人の画家にスポットを当てた展覧会が開催されました。
昭和の日本を代表すると言ってもいい画家・中村琢二がなぜ高千穂の風景を描いたのか。これについては福岡県宗像市が発行している「中村研一/琢二画家日記」(平成7年 宗像市史 資料編 別巻)に書かれており、この本人の日記によると、昭和30年(1955)6月15日に別府を経由して電車で延岡市を訪れています。その際、当時の旭化成工業株式会社の事業部長や庶務課長らと会い、「共に野口会館を見る。入口右壁に百号と決む」と書き記しているのです。昭和30年(1955)というと、当時の旭化成から寄贈された旧野口記念館が出来上がった年にあたります。その際どういったやり取りがあったのかは詳しくは書かれていないのですが、日記によると琢二は来延した翌日、旭化成から絵を数点頼まれ、そのまま車で高千穂へと向かっています。そして6月16日から27日まで10日余りにわたって高千穂や槙峰に滞在し、各地をスケッチしているのです。
琢二はこの日記の中でどの場所を描いたということを細かく記録しています。「国見ヶ丘、周囲を見る」「高千穂峡、真名井の滝を10号」「高千穂神社の森 4号」「ハイヤーにて押方へ。10号」「滝を上より10号」。さらに「槙峰 8号」などと書かれています。また、滞在中の出来事もよく記録していて、高千穂では旅館「神州」に泊まっていたこと、当時の高千穂町長や観光主任などと会食をしていること、写真館や映画館にも足を運んでいること、宿を去る際には「女中四人に各色紙。宿に4号をやる」、また延岡で旅館「五ヶ瀬」に泊まった際は、「半月川に映りて美しい」。11月の来延の際には「植木氏、峯氏にヤナにて鮎の料理を招ばる」などと書かれています。また高千穂までは旭化成のジープに乗って移動したなど、昭和30年(1955)当時の情景が思い浮かぶような興味深い記述がいくつもあります。
そしておそらく、押方を描いたという作品が延岡市にある「高千穂風景」100号の下絵になっているものと思われます。作品は棚田で牛を使って代掻きをしている人物や、藁葺きの民家、庭先には鯉幟が泳ぎ、洗濯物が風になびいているというとてものどかな情景が描かれています。淡色で爽やかなイメージで知られる琢二の作品にしてはやや強い色調で描かれていて、梅雨時に訪れたせいか空の色も少しどんよりと重たい印象があります。しかしながら、その場の少し湿った空気感や風の匂いまで伝わってきて、まるで牛の鳴き声まで聞こえてきそうなその絵は、まさに70年前の高千穂の風景を正確に表現しており、写実を得意とした琢二の真骨頂とも言える作品に仕上がっています。
この昭和30年(1955)6月の延岡・高千穂滞在のあと、琢二は同年の11月にもう一度延岡を訪れています。それによると11月10日、別府から電車で移動して夜八時に延岡に着き、その日は「五ヶ瀬」に泊まったとあります。そして翌日にはやはり旭化成に向かい、事業部長や植木工場長(植木善三郎氏と思われる)と会い、共に野口記念館を見に訪れているのです。
画家は100号もの大作を現地では描きません。その場では小さいサイズでスケッチ程度に描き、アトリエに持ち帰って大作に仕上げます。日記には詳しくは書かれていませんが、6月に現地でスケッチした作品を仕上げて届けた作品が実際に野口記念館に飾られているのを11月になって見に来たものと思われます(その後小切手を受け取って延岡を離れた旨の記述があります)。以上のことからもこの「高千穂風景」100号は、旧野口記念館を建設し延岡市に寄贈した当時の旭化成工業(株)が旧野口記念館に飾るために、当時すでに高名な画家であった中村琢二に依頼して延岡市近郊の風景画の制作を依頼し、一緒に寄贈された作品であると考えて間違いないでしょう。
中村琢二の展覧会は没後10年となる平成9年(1997)にも福岡県立美術館において開催されおり、このときに延岡市が所蔵している「高千穂風景」100号も貸し出されて会場に展示されています。その際発行された図録にも「延岡市所蔵」と書かれて掲載されているのです。現在この作品は、旧野口記念館が建て替えられた後、延岡総合文化センターに移され、一時期ロビーに展示されていましたが、このような外気が入ってくる環境に長く展示すると、油絵の具のひび割れや剥落などが起こる可能性があります。これだけ来歴がしっかりした、展覧会の図録にも掲載された作品、しかも同じ県内の高千穂の風景を描いた、ある意味では中村琢二の代表作と言ってもいいこの作品を延岡市はどれだけ大切にしてきたでしょうか。この作品は高度成長期を旭化成と延岡市が手を携えて発展してきたその絆の証であり、戦後の延岡市における文化の醸成を象徴する作品であると言えます。延岡市の重要な文化財と言っても過言ではないこの絵画を是非ミュージアムピースとして正しい状態で保存し、その来歴を後世に伝え、永く延岡市民の宝として愛されていくことを改めて願います。
〈参考文献〉
「中村研一/琢二画家日記」 宗像市史 資料編別巻 宗像市発行
「生誕100年記念 中村琢二展―陽だまりの輝き」図録 福岡県立美術館
「中村研一と中村琢二展」図録 福岡県立美術館
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